新説・日本書紀㉖ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)2月2日 土曜日
継体天皇 年号を初めて建てた天皇
5世紀の東西の倭国王
西の筑紫王朝は「武」の時に最盛期を迎えた。
477年、『宋書』によれば、武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した。翌年、「開府儀同三司」と称するも、宋の順帝は先の称号から百済を除き、武を「六国諸軍事安東大将軍倭王」とした。武は最終的には、502年、梁の武帝から「征東大将軍」と進号された。
国内では、筑紫国・火国を治め、豊国を越えて長門国(山口県)から常陸国(茨城県)までを領有したようだ。『常陸国風土記』に登場する「倭武天皇」は倭国王武のことと思われ、倭武は「倭が武」とも読める。埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣と熊本県江田船山古墳出土の銀錯銘大刀に刻まれた「獲加多支鹵大王」もあるいは倭王武を指すのではないか。また、九州に340基、関東に100基の装飾古墳が造られ、共通する文様が見られる。
一方、東の豊国では、雄略紀によれば、470年、「呉国が漢織・呉織・兄媛・弟媛の4人の工女を献じた」とある。「呉の客の道を造り、呉坂と名づく」ともある。香春町呉に呉媛(呉織)の墓があり、呉坂と推測できる石鍋の坂もあり、みやこ町に通じる。なお、福津市奴山には縫殿神社があり、工女兄媛が祭られている。
継体の即位と磐井の乱
498年、豊国王朝にクーデターが起こる。仁賢天皇が8月に崩御すると、大臣平群真鳥臣が太子小泊瀬稚鷦鷯尊を軽んじ、国政を専横する。太子は大伴金村連と謀り、ついに平群一族を誅殺し、12月に即位した。武烈天皇である。
だが、即位すると「多くの人民を虐殺することを快楽とした」とある。506年、後継ぎの子も無く死ぬ。『扶桑略記』には18歳とある。陵は瀬須殿古墳(田川市伊田)と推測される。
金村は皇位継承者を探す。まず、仲哀天皇の5世の孫倭彦王を迎えに行くが、倭彦王は兵を望んで恐れ、山壑に逃げ、行方不明になった。
次いで、物部麁鹿火大連・許勢男人大臣らと議し、応神天皇の6世の孫男大迹王を三国(小郡市か)に迎え、樟葉宮(福智町市場草場か)に至る。金村らは即位を請うが、男大迹王は何度も拒む。金村らの説得に応じ、507年2月、男大迹王は即位した。継体天皇である。暴虐の天皇を廃し有徳の王を帝位に即けたと表現されている。
書紀には無いが、男大迹天皇は日本国で初めて元号を建てた。『二中歴』などによれば、「継体・善記・正和・殷到」と建元・改元を行った。
526(正和元)年に磐余玉穂宮(福智町金田の稲荷神社)に遷った。
530(正和5)年6月、天皇は麁鹿火に、「長門より以東は私が取る。筑紫より以西はお前が取れ」と言った。
531(殷到元)年11月、麁鹿火は筑紫君磐井と三井郡に交戦し、磐井を斬り、国境を定めた。『百済本紀』には「日本の天皇及び太子・皇子がともに崩御した」とある。教科書にいう「磐井の乱」であるが、実態は「継体の乱」であったようだ。
豊国に主権を取り戻した継体も534(殷到4)年に玉穂宮で崩御した。陵は王塚古墳(桂川町寿命)かも知れない。
次回は16日に掲載予定です
福智町金田の玉穂山に鎮座する稲荷神社
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